はぴねすくるー

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本音を押し殺して生きる大人に問いたい。「あなたは何者ですか?」

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人は誰しも、誰かに認められたいと思う生き物なんだと思う。

 

人は1人で生まれ、1人で死んでいく。

だけど、人は完全に1人では生きられない。

誰かと支えあい、時に助け時に助けられ、誰かとのかかわりあいの中でしか生きていけない。

 

関わり合いを余儀なくされる社会で、

誰しもが人間関係の悩みに神経をすり減らす。

それだけ人との関わりはおおきな存在というわけだ。

 

だから大半の人は自分が生きる小さな世界の中で

認めてもらえる存在であろうとする。

周囲に認めてもらってこそ、初めて価値があるとみなされるのだ。

 

そんなこの社会を生きる大人に私は聞きたいんだ。

「あなたは何者ですか?」

 

 

社会とは模範解答を答えれた者が評価される

高校の時、進学校だった私の学校ではみんながいい大学を目指していた。

いい大学に入れば選択肢が広がり、豊かな人生が送れると大人は言った。

いい大学とは偏差値が高く、周囲から認められている大学のことだった。

 

学校では3年間、大学に合格するための勉強が行われた。

何をしたいか分からない人でもとりあえず大学に行くことを勧められた。

 

その大学が求める水準の答えを出せたものは合格とされ、

その他は不合格と振り落とされた。

 

 

大学に入り、3年生になると、次は就職の話をされた。

まだ20歳で自分の一生をかけた選択を迫られる。

ほとんどの人が自分が何をしたいのか分からず、

「とりあえず大手」とか「とりあえず安定」とかで会社を選んでいた。

 

就活では会社の求める模範解答を答えたものが

内定という合格通知を受け取っていた。

 

 

社会に出ると、それを余計顕著に感じた。

大半の大人は自分の本心を押し殺し、作り笑いを浮かべ、会社に従い、上司に媚を売り、求める正解を出すことが大人になることだと言った。

そして、会社を離れたところでいつも酒をのみながら愚痴を言う。

自分と違う価値観をまるで悪のように、笑いながら。

 

 

 

気づかぬうちに自分の本心が分からなくなる

そんな大人がずっと嫌いだった。

「あなたは何者なのか?何ができるのか?」

そう思っていた。

 

でも気づけば自分も一緒だった。

楽しくなくても笑って、相手の求める答えを頭の中で探していた。

誰かに認められる為、必死に努力した。

いい評価されたいと思った。誰かに必要とされたいと思った。

ただただ、愛されるために何もかも犠牲にできた。

 

そのうち、自分の本心が分からなくなっていった。

どの自分が本当の自分なのか分からないほどに。

息をするように、その場で必要とされる自分という存在を演じられていたから。

 

 

だんだん自分がなくなっていくような気がした。

自分の目から輝きが失われるような気がした。

 

そんな日々でも、ブログを通して、文字をつづっている時間だけは、夢中で、自分でいられるような気がしていた。

 

それもつかの間、アクセスが伸びさまざまな声を頂けるようになると、

「もっと誰かに役に立つものを」

「もっとみんなに喜ばれるものを」

そう思うようになった。

 

思えば思うほど、何も筆が進まない日もあった。

 

 

誰しも誰かに自分の価値を認めてほしい生き物だ

今まで書いた記事はすべてその時の等身大の私の本心であることは間違いない。

ただ、それは私が持つ私のポジティブな一面だ。

それしか見せてはいけないと思っていた。

 

それはきっと私自身が、

そんな自分ではないと認めてもらえないと思っていたからだ。

そんな自分ではないと誰かに価値を提供できないと思っていたからだ。

 

きっとあの時私が嫌いだと思っていた大人たちもそうなのだろう。

皆口をそろえていった。

 

「大人とはそういうものだ」

「社会とはそういう場所なのだ」

 

家族の為、お金の為、生活の為。

どんな嫌なことも我慢して、我慢していることにも気づかず

毎日会社に同じ時間に当たり前に向かう。

会社で生き残るために、うまくやっていくために、

本音を殺し、笑い、人の顔色をうかがう。

 

 

でもきっとそれは建前で。

みんな、そうしないと

自分に価値がないと評価されるのが怖かったのではないだろうか?

誰かに必要とされている実感がほしかったのではないだろうか?

何かに所属していないと、自分が何者でもないと感じてしまうのが孤独だったのではないだろうか?

 

 

会社を辞めた今、リアルにそれを感じている。

自分に価値がないと思われる怖さ。

誰にも必要とされないことへの恐れ。

何者でもない自分に対する孤独。

 

だからこそ、知った。

誰しもそんな恐怖や孤独と闘いながら日々生きていることを。

 

 

自分のものさしで価値がないと判断していただけだった

自分が何者でもないと会社を辞めてから痛感した。

 

そんな時、久しぶりに連絡をとった同級生がふとこう言ってくれた。

「さおりはあげまんだよ。さおりといるとモチベーションが上がるんだ」

 

その人と仲良くしていた頃、

私は本当に人生のどん底にいた。

自分が生きることで精いっぱい。

その言葉通り、ただ息をすること、当たり前に日常生活を送ることで必死だった。

その頃の自分が誰かに何か価値を提供できていたとは今振り返っても思えない。

 

それでもその彼曰く、そんな私でも充分に価値を提供していたのだという。

そしてその経験が今も誰かに価値を付与できるのだと。

 

 

きっと私は自分でそんな自分には価値がないと

自分のものさしで勝手に判断していただけだったのだ。

その頃も、今も。

そしてそんな自分の魅力となる部分を見ないようにし、見繕い、日の当たらない奥底に隠しこんでいたのだ。

 

私が、こんな自分には価値がないと

自分で不合格の烙印を押していただけだった。

 

これでは模擬試験でだめだったからといって、

勝手に本番の試験を辞退しているようなものだ。

 

模範解答ではないと評価していたのは、

世間ではなく、自分自身だった。

 

 

こんな自分。だからこそ価値を見出してくれる人もいる

私は昔から不器用で、何をやってもすぐにはうまくできなかった。

誰よりも時間と労力を必要とした。

 

だからこそ、

学校の授業についていけず引きこもってしまった生徒の家庭教師をやった時は生徒の成績を伸ばせた。

スポーツも小学生の指導は多くの監督から評価された。

 

人との関わりもうまくできずに社会から離れようとした時もある。

だから、同じ境遇の人の気持ちがわかり、必要としてくれる仲間ができた。

 

自分に価値がないといつも思っていたし、自信がなかった。

だからこそ、誰よりも誰かの価値を見出すことに長けてきた。

 

現実と向き合えず、この世界から消えてしまいたいと思った。

だからこそ、誰よりも具体的に夢見ることができるようになった。

 

本音を隠し、人の顔色を伺い、誰かに合わせる人生を送ってきた。

だからこそ、人が無意識に隠してしまっている本音に気づくことができるようになった。

 

この「だからこそ」の部分は

私の周りの人が私に与えてくれた価値である。

私が嫌いだった自分自身が周りの人には違う評価をされ、能力として認められ、必要とされていた。

 

きっと誰しもがそういう風に、

本当の何も持っていない自分だと思っている自分で

誰かに与えている価値があるのだと思う。

 

大人になると、誰もそんな部分をあからさまには評価してくれはしない。

評価されるのは目に見える分かりやすい価値だけだ。

 

きっとみんな、自分の心を殺して生きているからこそ、

周りの人の見えない価値を明確にきづけていなかったり、

それを褒めるほど、素直になれないだけなのだ。

 

でも、そんな見えない価値を必要としている人

求めている人は声を上げないだけでたくさんいるのだ。

 

 

だから私は自分自身をさらけ出して生きる決意をした。

 

 

自分自身は何者なのか、明確に答えられる人はどれだけいるだろう

 

最初に私はこの社会を生きる大人にこう聞きたいといった

 

「あなたは何者ですか?」と。

 

私が子どもの頃、無表情で会社に行く大人を見ながら思った唐突な質問だ。

会社や家庭という所属をなくした時、この答えにこたえられる大人はどれだけいるのだろうか。

 

私はずっとこの疑問を自分に問いかけてきた。

その中で分かったことがある。

 

楽しく夢を語るのも、繊細で落ち込んでいるのも、

活力的に前を向いているのも、消えたいとひきこもるのも、

へんにくそ真面目なのも、適当でだらしないのも、

人を信じすぎるのも、疑心暗鬼になってしまうのも、

新たなものを創造するのも、すぐに壊してしまうのも

 

 

全部、全部、自分自身だということ。

 

 

自分が価値を感じる部分も、そうでない部分も自分自身。

 

この両極端で二重人格のような私こそが私なのだ。

 

 

そして、自分の価値とは、

自分で推し量れるものであり、自分で決めれるものであり、

他人に量られて、他人に決められるものであること。

 

そんな矛盾したものであるのだ。

 

 

どんなに認められたいと作り上げたところで

それに価値を感じない人もいるだろうし、

自分が価値がないと評価した部分が

他人には大きな価値があったりする。

 

何が必要とされているかは自分ではわからない。

 

 

だからこそ、誰かに必要とされたいと本当は心の奥では願う大人たちはもっと素直に、自分の心のまま、生きるべきだと思う。

 

認められたいという本音すらも自分で認められない生き方は苦しいから。

 

そんな自分の本音を隠して、生きるのは

本当に生きていると言えるのだろうか。

 

きっとこの答えには模範解答はないのだと思う。

1人1人の答えがあるはずだ。

 

 

私自身は今は何者でもない。

すなわち、何者にもなれる大きな可能性を持っている

とも言える。

 

今は与えられる価値は小さなものであるかもしれないし

少数にしか与えられないのかもしれない。

 

でもいつか、私の今持つ原石を磨いていけば

きっと多くの人に大きな価値を与えられるようになるのだと思う。

 

誰しもが生まれながらにしてそんな価値を持ち、

生きる過程で多くの価値を身に着け生きているのだと思う。

 

 

だから年数を多く生きている大人こそ、

自分の価値を知り、楽しみ、キラキラと輝いていてほしいし、

自分自身子どもから見た時にそんな大人でありたい。

 

早く大人になりたいと

子どもたちが目を輝かせるような大人がもっと

たくさんあふれている社会になればいいと思う。

 

 

だからこそ。

これから社会に出る学生の方にも伝えたい。

 

自分の価値は自分の所属する場所で変わるのではなく、

自分自身が生み出していくものだ。

社会という荒波の中、この質問を自分に問いかけながら進んでいってほしい。

 

そして。

現代を大人らしく生きる大人たちに今一度問いたい。

 

 

「あなたは何者ですか?」

 

 

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